🌻 今日、私の84歳の誕生日は、冷たい雨。亡夫の5年日記(2001年から2005年まで)亡夫は2004年6月29日に他界したので、私の誕生日についての亡夫の記述は2003年11月26日が最後。今年もまた2003年11月26日の日記を読み返す。<住基ネット非加入を申し出る>と書いてあって、やっぱりねと思った。住基ネットはその後亡くなって、マイナンバーカードに変わったが、私はこれも無視。今でも持っていない。夫亡き後、5年日記の最後の1年半のページは、私が書いた。したがって、2004年11月26日と2005年11月26日は、私が書いている。両年とも「寂しい」という字が見える。ひとりになってから19年、最近の日記からは、寂しいという文字が消えた。現在は「寂しさ」よりも、人間社会に対する怒りと諦めの気持ちが交互にやってくる。しかし、長年の友人たちや親族との関係は、あたたかく頼もしい。本当にありがたいことだ。
ブログを始めるまでは、本当に私的な日記だったから、ここに再掲はできないけれど、2021年2月17日にブログを始めて、一応、公開しているので、今日は、ブログ公開の最初の誕生日『2021年11月26日のブログ」を再掲します。2年後の今に比べて元気!
NO.346 〜2021年11月26日〜 <1939年11月26日 ナオコばーちゃんは生まれた>
* 1939年11月26日に私は生まれた。1939年という年は、世界史の上でもかなり重要な年。私が生まれたなんてことは、重要でもないしどうってことはないが、私が東京高田馬場で産声をあげた年は、大変な年だった。つまり、1939年9月1日ドイツがポーランドに攻め込み第二次世界大戦が始まったのだ。
日本はドイツ、イタリアと同盟を結び世界を相手の戦争に突き進んでいたが、1943年9月にはイタリアが降伏し1945年4月30日にヒトラーが自殺して、5月7日にドイツ降伏。
日本はどうしていたか。1945年4月1日には米軍が沖縄本島に上陸し、7月26日にはポツダム宣言が発表された。しかし、それでも日本は降伏せず、ぐずぐずしているうちに、8月6日に広島、9日に長崎に原爆を落とされ、ようやく8月14日にポツダム宣言を受諾して、15日の無条件降伏となった。
9月2日に降伏文書に調印して、正式に降伏したわけだが、イタリアが降伏してから約2年、ドイツ降伏から3ヶ月あまり、ポツダム宣言発表から20日ほど。歴史にたらればはないが、43年のイタリア降伏以後、インパール作戦、レイテ沖海戦、沖縄戦、広島長崎原爆投下などがあったわけだから、イタリア降伏後日本も降伏していたら、あるいは、遅くとも5月7日のドイツ降伏後に降伏していたら、さらには、ポツダム宣言発表後すぐに受託していたら、少なくとも広島、長崎はなかったのではないか。
* 原爆投下という暴挙をしたアメリカを許すことはできないが、日本の降伏の決断が早ければ、原爆投下の機会を与えなかったのではないか。アメリカを憎み恨むと同時に、自分の国の支配者を糾弾すべきではないか。ヒトラーは自殺し、ムッソリーニは、パルチザンに殺された。それなのに、日本は、あの戦争の本当の責任者は誰なのか追求することをしなかった。東京裁判で7人が、あの戦争の最高責任者として絞首刑(最後にウイキペディアの記事を載せた)になったが、本当にあの7人なのか。当時の憲法(明治憲法)によれば、
大日本帝国憲法
第1章 天皇
- 第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
- 第2条皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
- 第3条天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
- 第4条天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ(以下略)
- ということなのだから、あの戦争の最高責任者は自ずと明らかだ。そして、この最高責任者は、天寿を全うし、憲法が変わっても、その子孫が天皇の地位にある。
- 今年、1945年8月15日から76年目の8月15日だったが、日本国には、相変わらず天皇が存在している。明治憲法とは違うが、日本国憲法も、相変わらず第1章に天皇を置き、第1条から第8条までが天皇条項だ。現憲法は「平和憲法」と言われるが、それは第2章からだ。そして第2章は、第9条のみ。次に第3章が来て第10条から第40条まである。
現在の自公民政権は、憲法改定に前のめりのようだが、私も自公民政権とは全く違う観点だが、幾つかの条文は改定の必要ありと思う。その最たるものは、第1章の天皇条項だ。憲法の第1章に天皇条項を置く限り、日本という国のあり方、日本国民の意識のありようは、今の時代にふさわしいものにはならないだろうと思っている。
* 今日82歳の誕生日を迎えてざっとふりかえってみる。第二次世界大戦勃発直後に生まれ、生家は、1945年5月25日の山手大空襲で全焼!父の故郷信州に疎開していて命は助かったが、5歳までの思い出の品々は消失したのだが、返す返すも残念なのは、初節句の「7段飾りの豪華雛人形!」。写真も残っていない。敗戦の翌年国民学校1年生、翌年から小学校になり、戦後の教育界の混乱期に大学まで進学、60年安保闘争に参加。難関を突破して(自画自賛!、教員志望者が少ないという現在から見たら、当時の東京都の教員志望〜私の場合は中学国語科教員で受験〜競争率倍率は二桁だった)東京都の教員になり、様々な教育闘争を経て、夫の介護のために54歳で早期退職。世界は戦争が絶えなかったが、それでも日本が直接戦争をする事態にはならずに、82歳を迎えた。あと、何年生きるかわからないが、この世での最後の日に、私はどのようは風景を見ることになるのだろうか。
*東京裁判で死刑になった7人*
判決 | 氏名 | 階級 | 主な経歴 | 罪状 | 備考 |
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死刑 | 板垣征四郎 | 陸軍大将 | 陸相(第1次近衛内閣・平沼内閣)、満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長 | 中国侵略・米国に対する平和の罪 | 1948年(昭和23年) 12月23日執行 |
死刑 | 木村兵太郎 | 陸軍大将 | ビルマ方面軍司令官、陸軍次官(東條内閣) | 英国に対する戦争開始の罪 | |
死刑 | 土肥原賢二 | 陸軍大将 | 奉天特務機関長、第12方面軍司令官 | 中国侵略の罪 | |
死刑 | 東條英機 | 陸軍大将 | 第40代内閣総理大臣 | ハワイの軍港・真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪 | |
死刑 | 武藤章 | 陸軍中将 | 第14方面軍参謀長(フィリピン) | 一部捕虜虐待の罪 | |
死刑 | 松井石根 | 陸軍大将 | 中支那方面軍司令官(南京攻略時) | B級戦犯、捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件) | |
死刑 | 広田弘毅 | 文官 | 第32代内閣総理大臣 | 近衛内閣外相として南京事件での残虐行為を止めなかった不作為の責任 |
(ウイキペディアより)