2021年2月28日日曜日

12. 2021年東京オリンピックに関して〜その2〜

*昨日は、<反東京オリンピック宣言>を紹介したが、今日は、2021東京オリンピックについての〜その2〜として、左写真の本の紹介を。
 2020年6月6日(土)毎日新聞「今週の本棚」で取り上げられた。
村上 陽一郎 評(東大名誉教授・科学史)
『五輪と戦後 上演としての東京オリンピック』
 著者 吉見俊哉(よしみしゅんや)
 2020年4月20日初版印刷 2020年4月30日初版発行
 発行所 河出書房新社 2860円
書評タイトル『スポーツに食い込む政治』
          
書評を読んで、すぐ購入したが、私の読解力では、一読してわかるようなものではなかった。はっきり言ってまだ完全に読み終わってはいない。つまり、ところどころ拾い読み程度。自分が読了していないのにと、お叱りを受けるかもしれないが、今日ご紹介するのは、たくさんの方に読んでいただきたいと思ったから。
 書評全文は長いので前半部分のみご紹介します。(新聞は縦書きですがここでは横書きに。以下文字色青の部分が新聞を書き写したもの)

 最初に極めて個別的な場面を話題にするが、第三章で、人間が書いた遺書のなかでも、かつて飛び抜けて強い印象を私の心に刻み込んだ一節に、本書で再び巡り合った。そう、円谷幸吉のあの文章である。「美味しゅうございました」を幾つも重ねた上で、「幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません」、そして「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれる。仲間にこのような痛切極まりない言葉を吐かせる人間社会とは、何と残酷なものか。
 オリンピックとはスポーツの祭典である、あるいは、ことになっている、と付け加えるべきか。スポーツとは、と今更振りかぶる必要はないが、本来<dis-port>に淵源し、「離れたところへ運ぶ」が原義である。日常の大事・些事から「離れた」ところへ人を「運んでくれる」のがスポーツ、苦しいもの、辛いものではない。まして、人を死に追いやるような、犠牲を強いるものであるはずはない。しかし、現実は。
 この書は、結局、スポーツの祭典であるオリンピックが、人間社会の制度の中に組み込まれたときに、どのように変質し、どのように人間性まで変える働きをしてきたか、その現実を丹念に掘り起こした労作である。特に人間社会の制度のなかでも、最も「非人間的」であるがゆえに、これほど「人間的」なものはない、と思われる政治が、どのようにオリンピックを頂点とするスポーツの世界に、食い込んできたかが、鮮やかに浮き彫りにされる。(中略)
 (聖火リレーが)実はナチスの理念実現のために始まったことは、本来よく知られている。聖火リレーによって得られた土地の細かい情報が、後に電撃作戦を実行する際に、重要な助けになったのでもある。しかし、現実には政治と経済への慮りもあって、誰も異を唱えない一大事業と化してしまっている。特に日本では、沖縄復帰と絡めて、日の丸との繋がりを意識した政治的な配慮が、随所に現れた結果が、今の形になった点が指摘される。(以下略)

 今年予定されている東京オリンピックを熱心に勧める人々、大きな期待を持っている人々には、昨日とりあげた「反東京オリンピック」や、今日とりあげた「「五輪と戦後」などを参考にして、もういちどお考えになっていただきたいと思う。オリンピックそのものを考え直そう。ましてや、今年開催するなど、キッパリやめよう。
 なお、新聞の切り抜きを書き写しているので、青色文字の部分に誤字脱字と思われる箇所があれば、書き写したブログ筆者の責任です。スミマセン。