💐 まず、せっちゃん便りから
ビキニ水爆実験の被災者として、久保山愛吉さんが思い出されますが、当時も、報道規制、アメリカとの密約で、その他の地域の被災者、わずかな補償金などは、国民には、知らされませんでした。
私は、何かの自主制作映画で、ずっとあとで知りました。
どこかの港町で、ゆかた姿の漁労者が、だるそうに、希望なく過ごしていた映像が、目に浮かびます。
昨日、焼津で、原水爆禁止世界大会などが主催した、1500人規模の、平和を求め、日本政府に核禁止条約 署名、批准を求める集会は、東京新聞には、記載がない。
どこにもない。
夕刊には、あったっけ?
ネットには、この集会とは、別?に!久保山さんの、墓参集会が、四年ぶりに、若者も参加して行われたとの、動画報道。
゛被爆者は私を最後に!” が久保山さんの、残した言葉。
地域集会で作った、可愛いい豆雛で、明日 ひな祭りを祝い、平和を祈りたいと思っています。
🌻 私のひな祭りの思い出を、2021年* 1946年4月国民学校入学、お雛様のないことが悲しく、自分で折り紙のお雛様を作ったりしていた。中学1年の夏休みのこと、母に連れられて小学生の弟と妹も一緒に、群馬県勢多郡宮城村にある母の実家に行った。お雛様がないという私の嘆きを聞いた祖母が、蔵から「お前の母さんの初節句のお雛様だよ。」と言って大きな箱に収まった一対のお内裏様を出してきた。1902年10月生まれの母の初節句といえば1903年3月。50年以上も昔の話だったが、大切にしまわれていたのか、昨日買ってきたばかりのように綺麗だった。祖母の言うことに、「おなみ(母の名前)は長女だったから、前橋まで出かけて京都から取り寄せてもらったんだよ」とのことだった。母も半ば忘れていたようで、大喜び。もちろん私も嬉しく、その箱を押し抱いて意気揚々と帰ってきた。高校を卒業し、大学進学で上京するまで、毎年3月3日は、母のお雛様を飾って盛大にひな祭りをした。
* それから幾星霜、夫も逝き、子どもは皆東京に出て一人になった母は1984年、初節句のお雛様とともに東京杉並の我が家に来た。その2年後あの世に旅立ち、私の夫も2004年6月29日逝ってしまった。一人になった私だが、3月3日のひな祭りは、母のお雛様とともに祝ってきた。今年も、もうすぐひな祭り、118歳のお雛様と楽しいひな祭りをしようと思っている。
(写真は118歳のお内裏様。ちょっとボケてしまってすみません)
このお雛様は今現在(2023年3月2日)も健在です!