2022年11月30日水曜日

NO.717〜2022年11月30日(水)〜東京五輪の大罪〜

 📚 我が家の書棚に並んでいる本の紹介 📚

 本間 龍 著

「東京五輪の大罪」政府・電通・メディア・IOC

 ウソと借金まみれの祭典の真実

 ちくま新書  2021年12月10日 第一刷発行 

 筑摩書房 定価902(10%税込)

 

🌻 去年の12月10日発行。今になって新聞は連日「五輪談合」問題を取り上げているが、遅すぎる。開会前に様々な問題があったのだから、中止させることもできたのでは。結局、この本が言っているように、

政府・電通・メディア・IOCの問題なのだね。


今日の瑠璃唐綿ちゃん、いよいよおしまいかな。蕾も見当たらない。




2022年11月29日火曜日

NO.716〜2022年11月29日(火)〜「年年歳歳花相似たり」というけれど〜

 🌻 「年年歳歳花相似たり」と言いますが、我が家の庭の花たちは、年ごとに咲く時期も花の姿も微妙に違います。やっぱり「生き物」なんだなあと思って眺めています。

去年の11月27日の写真を見ると千両の実がたくさん付いています。

今年は、どういうわけか、千両の実が一つもつきませんでした。ホントに残念です。

今年のお正月の玄関に庭の水仙、千両、松の小枝を飾ったのに。








今年のお正月の玄関の花

年々微妙に気候が違うので、植物の生育も年によって違うのでしょうね。

あと一月でお正月。

水仙は蕾が出たけれど開花はどうかな。

今、確かなのは松だけ。













金柑は今年も豊作


去年の12月19日の写真。金柑の実の大きさごとに選り分けて甘煮に。


2022年11月28日月曜日

NO.715〜2022年11月28日(月)今日の庭

🌻 今日の庭 🌻

瑠璃唐綿ちゃん
まだ蕾がある!

















ナンテン 実も葉もきれい



岩山の紅葉みたいに
見えませんか?
いくらなんでも、
それは無理!
って言われそうね。
我が家の小さな庭の
もみじちゃんです。

2022年11月26日土曜日

NO.713〜2022年11月26日(土)今日2回目のお出まし〜83歳になりました(その2)〜

 🌻 〜83歳になりました(その1)〜には、去年の誕生日(82歳)のブログを再掲しました。今年83歳の誕生日は、亡夫の従妹と私の妹が来てくれて、一緒にお昼を食べました。4日も休んだと思ったら、こんどは1日に2回出てくる、まったく気まぐれブログね😓

 田園調布に住む従妹がバス電車を乗り継いで、たくさんのごちそうを下げてきてくれました。料理が得意の彼女とはいえ、大変なご苦労です。は荻窪でバースデイケーキ(私の好きなモンブラン)を買ってきてくれました。お茶で乾杯し、豪華なお昼とケーキ、フルーツは私がお取り寄せした「三ケ日みかん」と「青森りんご」。

 そこに、速達が届きました。20代に同じ職場で働き、今は、東京を離れて暮らしていますが、その後も今まで友情が続いている数年歳の若い友人からの「バースデイカード」です。また、数年前からの友人からもお誕生日おめでとうのメールも届き、そして夕方には、50年近い昔からの年下の友人がやっぱり手作りのごちそうを届けてくれました。

 さらにせっちゃんだよりも届きました。せっちゃんは前から登場していますが、大学時代の友人です。

💐  元気に、83才を、お迎え、心から、お祝い申しあげます!

 私達は、青春時代を平和のうちに、過ごせた、幸せな世代。
 平安時代の、平均寿命、30台、明治大正昭和でも、50~60でしょう。
こんなに、長生きできて、さんざん、色々見聞できて、私は、運が良かったです。
 定年を待たず、また定年後すぐに旅立った友人の、分も、生きて、これからの、世代も、戦火に、遇わず、生きていけるように、頑張りましょう!


 23日は娘と孫がお祝いに来てくれ、昔の教え子からのプレゼントが届き、そして今日の数々のまごころ!

 一人暮らしの83歳ばーちゃんにとって、こんなにたくさんの人から誕生日を祝ってもらえるなんて、感謝!感激!幸せをかみしめています。みなさん本当にありがとうございます!

🌻 写真は瑠璃唐綿、発見!水仙のつぼみ、

  今日届いた友人からのバースデイカード





NO.712〜2022年11月26日(土)〜83歳になりました〜

🌻 無事に83歳になりました。まずは、去年の今日のブログを。

NO.346  1939年11月26日 ナオコばーちゃんは生まれた

* 1939年11月26日に私は生まれた。1939年という年は、世界史の上でもかなり重要な年。私が生まれたなんてことは、重要でもないしどうってことはないが、私が東京高田馬場で産声をあげた年は、大変な年だった。つまり、1939年9月1日ドイツがポーランドに攻め込み第二次世界大戦が始まったのだ。
 日本はドイツ、イタリアと同盟を結び世界を相手の戦争に突き進んでいたが、1943年9月にはイタリアが降伏し1945年4月30日にヒトラーが自殺して、5月7日にドイツ降伏。日本はどうしていたか。1945年4月1日には米軍が沖縄本島に上陸し、7月26日にはポツダム宣言が発表された。しかし、それでも日本は降伏せず、ぐずぐずしているうちに、8月6日に広島、9日に長崎に原爆を落とされ、ようやく8月14日にポツダム宣言を受諾して、15日の無条件降伏となった。
 9月2日に降伏文書に調印して、正式に降伏したわけだが、イタリアが降伏してから約2年、ドイツ降伏から3ヶ月あまり、ポツダム宣言発表から20日ほど。歴史にたらればはないが、43年のイタリア降伏以後、インパール作戦、レイテ沖海戦、沖縄戦、広島長崎原爆投下などがあったわけだから、イタリア降伏後日本も降伏していたら、あるいは、遅くとも5月7日のドイツ降伏後に降伏していたら、さらには、ポツダム宣言発表後すぐに受託していたら、少なくとも広島、長崎はなかったのではないか。

* 原爆投下という暴挙をしたアメリカを許すことはできないが、日本の降伏の決断が早ければ、原爆投下の機会を与えなかったのではないか。アメリカを憎み恨むと同時に、自分の国の支配者を糾弾すべきだはないか。ヒトラーは自殺し、ムッソリーニは、パルチザンに殺された。それなのに、日本は、あの戦争の本当の責任者は誰なのか追求することをしなかった。東京裁判で7人が、あの戦争の最高責任者として絞首刑(最後にウイキペディアの記事を載せた)になったが、本当にあの7人なのか。当時の憲法(明治憲法)によれば、


大日本帝国憲法

第1章 天皇
  • 第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
  • 第2条皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
  • 第3条天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
  • 第4条天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ(以下略)
  • ということなのだから、あの戦争の最高責任者は自ずと明らかだ。そして、この最高責任者は、天寿を全うし、憲法が変わっても、その子孫が天皇の地位にある。
  •  今年、1945年8月15日から76年目の8月15日だったが、日本国には、相変わらず天皇が存在している。明治憲法とは違うが、日本国憲法も、相変わらず第1章に天皇を置き、第1条から第8条までが天皇条項だ。現憲法は「平和憲法」と言われるが、それは第2章からだ。そして第2章は、第9条のみ。次に第3章が来て第10条から第40条まである。
 現在の自公民政権は、憲法改定に前のめりのようだが、私も自公民政権とは全く違う観点だが、幾つかの条文は改定の必要ありと思う。その最たるものは、第1章の天皇条項だ。憲法の第1章に天皇条項を置く限り、日本という国のあり方、日本国民の意識のありようは、今の時代にふさわしいものにはならないだろうと思っている。

* 今日82歳の誕生日を迎えてざっとふりかえってみる。第二次世界大戦勃発直後に生まれ、生家は、1945年5月25日の山手大空襲で全焼!父の故郷信州に疎開していて命は助かったが、5歳までの思い出の品々は消失したのだが、返す返すも残念なのは、初節句の「7段飾りの豪華雛人形!」。写真も残っていない。敗戦の翌年国民学校1年生、翌年から小学校になり、戦後の教育界の混乱期に大学まで進学、60年安保闘争に参加。難関を突破して(自画自賛!、教員志望者が少ないという現在から見たら、当時の東京都の教員志望〜私の場合は中学国語科教員で受験〜競争率倍率は二桁だった)東京都の教員になり、様々な教育闘争を経て、夫の介護のために54歳で早期退職。世界は戦争が絶えなかったが、それでも日本が直接戦争をする事態にはならずに、82歳を迎えた。あと、何年生きるかわからないが、この世での最後の日に、私はどのような風景を見ることになるのだろうか。

*東京裁判で死刑になった7人*
判決氏名階級主な経歴罪状備考
死刑板垣征四郎陸軍大将陸相第1次近衛内閣平沼内閣)、満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長中国侵略・米国に対する平和の罪1948年昭和23年)
12月23日執行
死刑木村兵太郎陸軍大将ビルマ方面軍司令官、陸軍次官(東條内閣英国に対する戦争開始の罪
死刑土肥原賢二陸軍大将奉天特務機関長、第12方面軍司令官中国侵略の罪
死刑東條英機陸軍大将第40代内閣総理大臣ハワイの軍港・真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪
死刑武藤章陸軍中将第14方面軍参謀長(フィリピン)一部捕虜虐待の罪
死刑松井石根陸軍大将中支那方面軍司令官(南京攻略時B級戦犯、捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件
死刑広田弘毅文官第32代内閣総理大臣近衛内閣外相として南京事件での残虐行為を止めなかった不作為の責任
(ウイキペディアより)

2022年11月25日金曜日

NO.711〜2022年11月25日(金)その2〜今日の瑠璃唐綿ちゃん、終わりも近いね〜

 

今日の瑠璃唐綿ちゃん、まだこんな可愛い蕾があるんですよ!

話は違いますが、夜の植物のライトアップはやめましょうよ。人間の都合で、夜も煌々とライトアップするけれど、植物にとってはいい迷惑だと思うよ。

だって、植物は夜は暗い中で休みたいんじゃないの。

日照と彼らの生活は密接につながっていて、日暮れとともに彼らも休みたいはず。人工の明かりに照らされた、桜や紅葉を綺麗なんて思うのは人間のエゴ。青空のもと、陽に照らされた桜や紅葉こそ美しい。雨に濡れた若葉も美しい。草木も夜は眠りたいのよ。なのに、ライトアップだなんて、かわいそうです。

と、怒りを鎮めてくれるのは、やっぱり庭の小さな秋。瑠璃唐綿ちゃん、さすがに花は小さくなり、色も褪せてきているけれど、とにかく踏ん張っているね。

最後の一輪を見逃さないように気をつけなくちゃ。






NO.710〜2022年11月25日(金)〜4日もブログお休み!〜

 😓 やっぱり、ボケちゃったのかなあ!なんで4日もブログ更新してないのかわからない!?日記帳を開いてみたら、21日から昨日24日まで、ちゃんと書いてある。 

 21日(月)は何をしていたのかというと、そうそう、書棚の入れ替えをしていた。書斎(今は半分物置化している)とダイニングルームが主な書籍の置き場。ああでもないこうでもないと書棚の本を引っ張り出して並べ替えたりしていると、ついつい手に取って読み始め、気がついたら何時間も経っていたなんてことになる。

  22日はというとそうだ、明日23日は娘親子(娘には女の子が二人いて、一人は既に社会人、妹の方が大学4年、来年から東京都の公務員になる)その子が、母親と一緒に私〜お祖母ちゃん〜の誕生祝いと公務員試験に無事合格したその報告を兼ねて来てくれるというので、少し家の掃除などをしているうちに1日終わった。

 23日は、午後から娘親子が来てくれて、彼女(私にとってはなさぬ仲であっても孫娘)の赤ちゃん時代のことや(私も保育園時代の彼女のお守りなどもした)、おじいちゃん(我が夫、娘の実父)の思い出話などを楽しくしているうちに時間が経って、ブログは休載。(誕生祝いの花束と3時のおやつの美味しいプリンをもってきてくれた)玄関に飾った花束!



 昨日24日は、17時40分から第5回目のワクチン接種予定なので、朝から落ち着かなかった。16時40分頃家を出て会場に行き、17時40分からの回の3番目に受付をしてもらって、かなり待機して、終わって、久しぶりの街だったので買い物などをして、帰宅したのが夜8時前。かなり疲れてざぶっとお風呂に入って寝てしまった。

 そして今日はもう25日、ブログお休みも5日目なので、これはまずいぞ!このままズルズル行ったらあっという間に12月になっちゃうよと、パソコンに向かったら、あっという間にもう4時。明日26日は、私の83歳の誕生日ということで、亡夫の親戚関係では唯一付き合いのある、彼の従妹が訪ねてくれる。今日この時間を外すとまた何日かブログお休みの危険あり。ということで、ようやく、パソコンに向かっている。

 そうそう今日は先ほど、速達が来て、何かと思ったら、大昔の教え子(この言葉きらいなんですが代わりのいい表現が見つからなくて)から、ハッピイバースデイのすてきなプレゼントが届きました。彼女が小学3年生のときたった1年担任しただけなのに、担任を外れて以来ずっとずっと、50年以上も誕生日を祝ってくれるのです!彼女も還暦を過ぎたと思うけれど、私の眼に浮かぶのは、おかっぱ頭の綺麗な目をした可愛い子。

 去年の11月24日の「一寸先は闇」を再掲。

NO.344 うれしく、ありがたい誕生日の贈り物

50年以上前に、ある小学校で出会った和ちゃん。3年生の可愛い子。たった1年しか担任しなかったのに、それから毎年、私の誕生日にプレゼントが届きます。和子ちゃんの人生にも、私の人生にも、本当にいろいろなことがありました。

その間、実際に会ったことは数えるほど。でも、年に一度の誕生日のプレゼントで、毎日会っているような気持ちになります。

私からは何にもしてあげないので、申し訳ないなと思いつつ、ありがたく嬉しくプレゼントをいただいているのです。和ちゃんほんとうにありがとう! 写真はそのプレゼント!    

                                   
今年のプレゼントの、ペーパークラフト。こんなのがあるのかと感嘆!初めて見ました。ちょっと厚みのある速達便が届き、何かしらと思って開封したら、中からパッと開いたこんな素敵なお花が!

いろいろなものがあるのね。ナオコばーちゃんは、昔人間で、こんな花束があるなんて知らなかったわ。去年のお花の壁飾りといい、今年の花束といいホントに素敵。和ちゃんありがとう!!! コロナが収まったら、なんとか一度会いたいな!

2022年11月20日日曜日

N0.709〜2022年11月20日(日)〜命日と誕生日〜

 🌻 11月20日は、亡夫の母の命日でもあり、親友の誕生日でもあります。亡夫の母は、今では思い出す人も少なくなっているでしょうが、1980年11月20日栃木県藤原町川治温泉の旅館火災で焼死しました。その前日から、二泊三日の予定で、杉並区の老人会のグループ旅行に参加したのですが、宿泊先の旅館が火災を起こし、添乗員も含めて45人が亡くなるという大惨事がありました。当時は大変な騒ぎになりましたが、今ではそんなこともあったかなと、歴史の彼方に消えてしまっていますね。42年前の今日のことです。結婚して10年目、小雪の舞う現地に私は夫とともにかけつけたのでした。お寺の本堂の床に45人の遺体が並べられておりましたが、誰が誰やら全く見極めることができないような遺体の損傷のひどさに、言葉もありませんでした。あれから42年の月日が経ち、母も夫も千の風。

🌻 親友の誕生日と言っても私より14年も若い人。初めて出会ったのが彼女20歳私34歳、私の勤め先の学校に彼女が新卒教員としてやってきたのでした。あれから49年の年月が流れ、彼女69歳の誕生日、当然私は(今月26日に)83歳。49年の歳月が流れても、偶然彼女の住まいと我が家とが自転車で20分ほどの距離なので、友情が途切れることなく、現在もなお家族ぐるみのお付き合いが続いています。一人暮らしの私にとって、年の若い親友の存在は、ほんとにありがたいものです。

🌻 2022年11月20日の小さな庭の秋を。松の緑とドウダンツツジの紅葉、かなりくたびれてきたけれどまだ頑張っている瑠璃唐綿、 だいぶ増えてきたエリカの花。

瑠璃唐綿はまだ蕾もあるんですよ。

いつまで咲くつもりなのかな。





2022年11月18日金曜日

NO.708〜2022年11月18日(金)〜カクタス去年と今年〜

🌻 今日(2022年11月18日、金)、庭を見たら、夏の間、庭の隅にほっておいたカクタスの鉢に、小さな花芽が付いていました。下の写真がそれです。そろそろ家の中に取り入れようかなと思って、去年はどうだったかしらと、パソコンのアルバムを覗いたら、去年の秋は、今年より早かったみたいですね。

というわけで3枚目の写真は去年のものです。





 

















去年の11月20日のサンルーム



2022年11月15日火曜日

NO.705〜2022年11月15日(火)〜母の記(8)ことわざ、そして「すばる」

 🌻 母と暮らしたのは生まれてから18歳、高校3年まで。日常生活の中で、母はよく、ことわざを口にしていたように思います。母自身も父から「這っても黒豆」なんて言われていた話は、この前書きましたね。現在一人暮らしの私ですが、徒歩10分余りのところに住む妹が、ほとんど毎日のように訪ねてくれて、世の中への怒りや昔の思い出話や、ときには昔の歌を歌ったりして、1時間余りを過ごします。そんなとき必ず話に出るのが、母の思い出。母が折に触れて口にしていたことわざを言い合っては大笑いしています。六つ違いの妹ですが、この年になってきょうだいで、思い出話をして笑い合えるのは本当にいいものです。

朝雨と女のうでまくりには驚くな」「朝日のチャッカリ、姑のニッコリ油断がならぬ」「朝霧まいて降ることなし」 お分かりですか?  朝の空模様から今日の天気予報を言うのです。

 現在はテレビが呆れるほど懇切丁寧に「天気情報」を流しますね。天気だけでなく、着るものとか持ち物、洗濯物の干し方まで(朝は厚手の上着、昼は半袖云々、折り畳み傘を持てとか、長い傘がいいでしょうとか、洗濯物は、午前中は外干し、午後は家の中でなどなど)そこまで言うかとうんざりするほど。テレビなどというものは想像もできなかった頃、人間は自然と一体の暮らしをし、その中から生活に必要な知識を得ていたのですね。

 私が朝に夕に空を眺め、朝焼け、夕焼け、雲の動き形、月や星に関心を持つのも、子どもの頃のくらしの影響というか母の影響かな。東京には本当の空がないと智恵子が嘆いた頃の東京の空は、今とは比べ物にならないくらい澄んだ空だったはずですが、それでも、智恵子は嘆いた。21世紀の現在は本当に綺麗な空を見ることが少ない。夜は街の明かりが(我が家の近所では、街灯や家々の玄関灯など)たくさんあって、星が見えない。天の川までよく見えた信州の夜の星空が懐かしい。(今は田舎も夜も明るいかも!?)

 今、一番見たいのは「すばる」です。堀内敬三作詞の「冬の星座」〜オリオン舞い立ち すばるはさざめく〜 大好きです。我が家からもオリオンは見えるのですが、すばるはどんなに目を凝らしても確認できません。死ぬまでにもう一度見たいものの筆頭です!

 清少納言も、星の筆頭に「すばる」をあげています。

* 枕草子は、かの有名な「はるはあけぼの」ですね。

その「二五四」「星は すばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて。と、あります。清少納言も「すばる」が好きだったのかと、嬉しくなっちゃいます。

<なお、「よばい星」とは、「流星の異称」と 「広辞苑(第7版)」に載っています。>


2022年11月13日日曜日

NO.704〜2022年11月13日(日)〜母の記(7)嫁いり道具は「シンガーミシン」〜

 🌻 関東大震災後、東京での勤めを辞めて帰郷したけれど大地主の金持ちの農家」への嫁入り話を蹴って、再び上京してきたしっかり者の母。一族の庄屋で財産もある家柄なのに、父親が没し、あとを継いだ長兄から進学を拒否され、東京で歯科医を開業していた次兄を頼って上京してきた末っ子の父。そんな二人の結婚は、母にとって大きな決断だったと思います。が、その結婚に際して、母が父親に頼んだのが、当時の一般的な嫁入り道具ではなく「何にもいらないけれど、シンガーミシンだけは買ってほしい」ということだったのですから、なんだか凄い話だなあと思うのです。シンガーミシンはアメリカ製です。ミシンを買ってもらって、家族の衣服は自分で作ろうということだったのですね。

 そうして、ミシン一つで結婚して21年後、太平洋戦争の敗戦濃厚になったころ、百科事典とともにミシンもいち早く信州の父の実家に疎開しておいたのでしょう。戦後、私が小学生だったころには、縁側にミシンが置いてあったのを覚えています。たしか、村の学校にもミシンはなかったと思います。

 思えば、平塚らいてう」が生まれたのが1886年、母は1902年生まれ、母が結婚した1924年当時は、「らいてう」など新しい女性が活躍していた時代だったのですね。母の記(5)に書いたように、1949年父が病気になり、母は野良仕事、蚕も飼い、その間にミシンを踏んで子ども達の衣服も作ったのですから、スーパーウーマン。母が逝って36年、ようやく母のスーパーウーマンぶりに感嘆する私。ちょっと遅すぎ!

 母の最後の2年間は、私たち夫婦と同居したのでしたが、当時の私は現役で多忙、年金生活に入っていた夫がもっぱら母の相手をしてくれました。「ナオコはよく怒るがナオフミさんはやさしい」というのが母の口癖でしたが、私は、夫への遠慮もあって、母の言動への注文が多く、確かによく小言を言っていました。今頃になって、もう少し優しくしてあげればよかったなと思うのですが。母が逝って36年。母に優しかった夫も逝って18年。千の風になった二人は、大空を吹き渡りながら、どんな話をしているのかしら。

2022年11月11日金曜日

NO.703〜2022年11月11日(金)〜母の記番外「ナオコばーちゃん2年生の作文」

 🌻 ブログ「一寸先は闇」のNO.693に以下の投稿をしました。N0.693~2022年10月28日(金)〜おかあさん〜75年前の「つづりかた帳」より。同じつづりかた帳には、次のような作文も載っています。

「うさぎ」(原文のママです)

 わたくしの家には、うさぎが十ぴきいました。六ひきはおやうさぎで四ひきはこうさぎでした。きょうはおやうさぎをみんなころしてしまうといっていました。わたくしはうさぎをころすのをみていたらかわいそうでなみだがでてきました。こうさぎはおかあさんうさぎとわかれるのはかなしいだろうと思いました。わたくしもおかあさんがしねばかなしいのだから、まだ子うさぎはあかんぼみたいなのにほんとうにかわいそうだとおもいました。

担任の先生の評がかいてあります。

「なおちゃんが大じにそだてたうさぎだから、よけいにかわいそうだったのでしょう。のこったうさぎを大じにそだててやりましょう。

82歳のナオコばーちゃんの解説〜よくわかりませんが、飼っていたのはアンゴラうさぎで「毛皮」をとるために殺したのじゃないかと思います。

この先生は1年生からの持ち上がりでした。女子師範学校を出たばかりの優しい可愛い先生でした。今でもはっきり顔を思い浮かべることができます。もしご存命なら97歳のはずですが、申し訳ないことに現在の消息は存じ上げません。

きょう、これを載せる気になったのは、人間界の出来事が耐えられないほど劣化しているので、敗戦後2年、1947年の小学校2年生の私は何を考えていたのかなと思ってね。貧しい暮らしのなかでも、優しい気持ちを持っていたのですね。それから75年、なおちゃんは怒れるばあちゃんになり、最近は怒り疲れて、もう、どうにでもなれと投げやりになっています。

2022年11月10日木曜日

NO.702〜2022年11月10日(木)〜母の記(6)自分の食い扶持くらい自分で稼げ〜

 🌻 母の一代記を書こうなんてちょっとおこがましいことかもね。相当な資料を集め、相当な覚悟を持ってしなくてはならないことですよね。ブログの気楽な話にしちゃうのは如何なものかと、私のみならずきょうだいやその他関わりのある人々から叱られるかも。確かにそうですよね。ということで、始めたことですが、ややトーンを落として、気楽なおしゃべりに。 

 「みんな私が産んで私が育てた」その子育ては、どんなものだったのか。男の子に対してはどう思っていたのかよくわかりませんが、女の子に対しては、今でいう「キャリアウーマン」まではいかなくても「自分の食べることぐらい自分で稼げ」ようするに「一生食うにに困らない仕事(職業)をもて」ということです。それには、母の記(3)で書いたように、結婚して7年後の1931年には世の中の不況に伴い夫が時事新報を解雇された」経験があります。幼子を抱えてどうしたらいいのか、その時、もう、人に雇われるのでなく努力すればなんとかなる仕事「商売」を始めようと思ったのですって。そして尻込みする夫の背中を押して、知り合いの「古本屋」の指南をうけて、高田馬場に小さな古書店を開業したのですね。その経験が一生食うにに困らない仕事(職業)をもて」ということになったのです。

 その母の教えというか人生哲学にしたがって、3人の娘はそれぞれ、そういう道を選びました。姉(戦前の女子師範、のちの東京学芸大学卒)と私(東京学芸大学卒)は公立小学校教員に、妹は(社会事業大学卒)東京都の公務員になり、姉は残念ながら病気(乳がん)のため、私は夫の介護のために二人とも定年前に退職。しかし妹は定年まで勤め、さらに嘱託として70歳まで勤めました。3人の娘は、自分の食い扶持くらいは、人に頼らない仕事を持ったわけです。したがって、3人とも結婚後も夫に気兼ねするなどということなく、父母の老後の世話をすることができました。姉夫婦はすでに千の風。私は一人ぐらし、妹は夫婦揃って、それぞれ、現在も「自分の食い扶持くらいは」なんとかなっています。母の確固とした子育て論に感謝です。

         〜朝焼けの空(2017年11月7日、二階の窓から




2022年11月9日水曜日

NO.701〜2022年11月9日(水)〜奇跡の一瞬「皆既月食と天王星食」〜


 










🌻 昨夜2022年11月8日の皆既月食、みなさんご覧になりましたか。私は、2階の窓を開け放って、飽かず眺めました。

月食と惑星食が同時に見られるたのは、1580年7月の土星食以来で、天王星食は、過去4000年間では、一度もなかったそうです。すごい瞬間に出会ったなんて、人生には奇跡が起きるんですね!

その奇跡の一瞬を私はスマホでパチリ!てな訳ないですよね!スマホ写真は米粒よりちっちゃいお月様でしたが、上の写真は、娘の連れ合い、私のパソコンやスマホの先生の作品です。昨夜遅く23時過ぎにメールで送ってくれました。彼は、すでに退職していて悠々自適。娘はまだ現職の高校教員。彼女が帰宅する頃には、夕食ができているそうです 😍 

🌻写真の無断転載はご遠慮ください🌻

2022年11月7日月曜日

NO.700〜2022年11月7日(月)〜母の記(5)「肺結核」ではなく「肺壊疽」ではないか〜

 🌻 父が慣れない開墾仕事で倒れた時、村の近所の医者は「肺結核」との診断だった。昭和20年代の肺結核といえば、都会でも恐れられた病気。まして山深い田舎では「死の病」と恐れられていた。「肺病」の噂が広がり、誰も寄り付かず、母の苦労は筆舌に尽くし難かった。母は、もう一人の若い開業医に泣きついた。その時のことを後にその医者は「おなみさんが髪振り乱して、先生助けてくださいと言ってきた時には、有無を言わせずという感じだった。コレはなんとかせねばと思った。」と言っていた。

 母は、「肺結核」との診断に疑問をもち、なんと、古本屋を営んでいた父が、これだけはと戦火に焼かれる前に故郷に疎開させておいた「平凡社の世界大百科事典」を必死に調べたのだ。その結果、父の病は「肺結核」ではなく「肺壊疽」ではないかと突き止めた。髪振り乱して駆け込んだ二人目の医者に「肺結核ではなく肺壊疽ではないかと思う」と訴えたという。「這っても黒豆」の根性がなければ、「肺結核」の診断のまま、当時、超高値のペニシリンを使ってもダメで、父は命を落としていただろう。しかし、二人目の医者と母の協力で、父は命拾いをした。1949年(昭和24年)のことだった。

 小学4年生だった私がかすかに覚えているのは、父が8畳の表座敷(当時の家は、囲炉裏を囲む板の間の台所と、12畳の茶の間、8畳の表座敷、同じく8畳の奥座敷、6畳の小座敷と、畳の部屋が4つあった。)そのなかの庭に面した8畳の表座敷が父の病室だったこと。医者が毎日のように往診して、気管支に直接注射をしていたこと。その注射が医者も大変だったが、受ける父の苦しさも大変だったことなど。

 とにかく母が「百科事典」で調べて、「肺壊疽」という病名を突き止めたということは、すごいことだったと思う。身長150センチ足らずの小柄な母だったが、丈夫にできていたのだろう。8人もの子を産んで(一人は5歳で一人は生後10日で亡くしたが)戦中戦後の苦境(貧乏、夫の看病などなど)を乗り越え「みんな私が産んで私が育てた」と豪語し、民生委員や仏教婦人会などの社会活動もした母。子どもたちはそれぞれに、自分たちの人生を精一杯生きてきた(6人のうちすでに次兄、私、妹の3人になってしまった)が、母を超える強靭な人生とはならなかったかなあと思う。我が母ながら素晴らしい人だった。

瑠璃唐綿ちゃん

そろそろおしまいかな

よく頑張ったよね。

最後の1輪まで

見届けてあげるよ。


金柑の実が

だいぶ大きくなりました。

年末には

金柑の砂糖煮が

できるかな

誤字脱字等、校正どうぞよろしく。



<追伸>

明日11月8日店頭発売の「サンデー毎日」11月20日27日合併号「読者から」に私の投稿が載っています。青木さんの「抵抗の拠点から」もオススメです。

2022年11月6日日曜日

NO.699〜2022年11月6日(日)〜母の記(4)這っても黒豆〜

🌻  「這っても黒豆」その心は?黒い虫が畳の上にいた、ありゃ黒豆だよ、と言っているうちに虫が動き出した、やっぱり黒い虫だよ、這い出したじゃないか、いや、あれはやっぱり黒豆だ、とまあそういうことで、その心は「気が強い」「強情っぱり」「負けず嫌い」。父は母のことをよく「うちの母ちゃんは這っても黒豆だからなあ」と言っていた。嘆きとも、自慢とも、とにかく決して否定的な言い方じゃなかった。なにしろ、そんな強気な「母ちゃん」に支えられて、病気も乗り越え、貧しい家計もやりくりしてくれたのだからね。

 「這っても黒豆」の母は、しかし弱いものいじめは絶対にしなかったし、田舎にありがちな「差別」もしなかった。終戦直後の日本、様々な差別が存在していた。まして地方には、いわゆる「被差別部落」のなごり「被差別部落出身者の家」などが残っていた。私の故郷にもあったが、母は絶対にその人々を差別することはなかった。その人達の一人が、何かの用事で我が家に来た時、母は囲炉裏端に上がってもらってお茶を出した。近所付き合いのごく当たり前のことだったが、その人は、家に上げてもらってお茶をよばれたのは初めてだと言って感激したという。そんなエピソードを大人になってから聞いた。私と妹が現在父母の思い出話をする時に、その話もよく出てきて、そういうおかあさんで本当に良かったよね、だから私たちも、被差別部落出身かどうかなど全く考えたこともないし、白人黒人、出身国などなどによって人間を差別するなどといういことは夢にも思わないよね。と言い合っている。

 妹に聞いた噴飯もののエピソードを。彼女は日本社会事業大学を卒業。都内のある区で、児童福祉の仕事をしていた。彼女が学童館の館長をしていた時、自分の子どもを優遇せよというような理不尽な要求をしてくる母親がいたという。「申し訳ありませんがご希望には添えません。館のきまりがありますから」と言ったところ「うちの主人は都議会議員の〇〇ですのよ。ご存知ないかしら」と言ったので、「存じ上げませんし、都議会議員のお子さんであるとなかろうと、特別扱いはできません」と言って、理不尽な要求をはねつけた。

「よくやったね!」「全く都議会議員が何様だっていうのよねえ」と妹と私は大笑い。でも、区の課長級なんかは、都議会議員というとペコペコしていたみたい。都議会議員どころか、区議会議員が視察というか、見学に来るなんていうと児童館の掃除を念入りになどということがあったらしい。学校にもそういうくだらない話はあったわね。母の話からだいぶそれましたが、現在の日本においても、世界中でも、「様々な差別問題」は、未だに解決されない根の深い問題だ。どうしてなのか、私には理解できない。話はそれるが「杉田水脈」のような国会議員は、国会議員の資格なし。すぐやめるべきだと思うが、これは差別かな?ちがうよね!

11月6日午後6時

二階の窓からパチリ。

12夜の月と

右上小さく見えるのは

木星です。

2022年11月5日土曜日

NO.698〜2022年11月5日(土)〜母の記(3)みんな私が産んで私が育てたのよ!

 🌻 1924年22歳の時に25歳の父と結婚。当時、父は時事新報社勤務。翌年長女誕生。28年29年と次女長男続けて誕生したが、結婚7年後31年には世の中の不況に伴い時事新報を解雇された。同じ年、次女が病死という大きな災難が夫婦を襲った。文学青年でロマンチストでプロレタリア歌人同盟に参加していて、しかも会社を解雇され、次女には死なれという中で、父は「この人には私が付いていなけりゃ」という気概をもった母にどれほど助けられたことか。その後母は、「もう会社勤めはやめてほしい。自分たちで商売を始めよう」と父を叱咤激励して、高田馬場で「古本屋」を始めた。しかし、左翼関係の本や自分の好みの本ばかり置いて、ちっとも売れなかったらしい。常連客には中野重治や佐多稲子、中条(のちの宮本)百合子などがいたという。

 1936年には次男誕生(10日後病死)37年三男誕生、39年三女(私)誕生と4人の子持ちとなったが、時代は戦争へと突き進む。42年四男誕生の頃は、戦争は敗色濃く、45年5月東京山手大空襲で古本屋兼自宅は全焼!小学生の三男は縁故疎開で、すでに信州にいた。3月の東京大空襲後に、高田馬場も危ないということで、母は、2歳の弟を背負い5歳の私の手を引いて父の故郷信州に疎開したので、家は全焼し家財道具やたくさんの本は亡くしたが、家族は全員無事だった。結婚から21年、夫の失業、子ども二人をなくし、空襲で家は全焼という災難に出会った母だったが、まさに彼女が付いていたからこそ、父はその大きな危機を乗り越えたきたのだと思う。戦後の信州での生活は、大変なものだった。家こそあったが、父は、不在地主だったために、田んぼは農地改革で全て人手に渡り、わずかに残った桑畑を開墾して田んぼにするという重労働のために父は病に倒れてしまった。私が小学校3年生の頃のことだ。

 1945年の8月15日には、父母と6人の子ども揃って終戦の詔勅を聞いたが、姉と兄はすぐに東京に帰り、姉は小学校教師に兄は東大生になった。残った子ども4人と病気の夫を抱えて、見知らぬ土地で暮らす母の苦労は並大抵じゃなかったろう。「私が付いていなけりゃ」と言った母自身も、これほどの災難を想像していたかどうか。しかし、気丈な母は本当に前向きに頑張った。母の口から、愚痴めいた言葉を聞いたことはない。当時のエピソードで、さすが我が母と、今でも妹と語り合うことがある。それは、中学2年、小学校5年、小学校2年と3人の子ども達が、そろって成績が良かったので、村の人から「おたくはお子さんのできがいいから、うらやましい」と言われた時「みんな私が産んで私が育てたのよ」と言ったのだ。

いやまったく、それにちがいないけれど、そう言い放つとは、すごい鼻息!さすが!👍

 

2022年11月4日金曜日

NO.697〜2022年11月4日(金)〜母の記(2)この人には私が付いていなくちゃ〜

 🌻 「太陽と米の飯はついてくる」と豪語!して関東大震災後の東京に出てきた21才の母は、その後、、元の職場に戻ったのかどうか、その辺のことはよくわかりませんが、同郷の親戚の家に居候をさせてもらったらしいです。その頃どんな経緯かそれもはっきりしませんが、父と知り合ったようです。

 当時は「上州名物、かかあ天下と空っ風」と言われていて、のちに母に聞くと「上州」つまり群馬県は養蚕が盛んで(富岡製糸工場の話がありますね)、その養蚕の仕事は、女性がになっていたようです。また、「空っ風」とは、「赤城おろし」を言うようです。とにかく上州女はよく働いたということでしょう。母は、そう言われることを嫌だとはおもわず、むしろ誇りに思っていたようです。そして、戦後、夫の郷里信州に暮らすようになって、私などによく「信州は男尊女卑だ」と言っていました。親のいいなりにならずに単身東京に飛び出して、今で言えば「自立した女」だった母にしてみれば、何かというと「女のくせに」という言葉が男たちの口に出る信州での暮らしに、「男尊女卑」を感じたのでしょうね。私も小、中学生の時、父から、また周囲の大人や同学年の男子などから「女のくせに」と言われて、嫌な気がしたのを覚えています。

 話はもどって、母は、女4人男3人きょうだいの長女なのに対して、父は七福神と言っていたように、男6人女1人というきょうだいの末っ子。小学校の成績が良かったので、先生が(当時は旧制の「中学」「高校」「大学」というコースと、尋常小学校の後は「高等小学校」というコースがあった)大学まで行くコースを勧めたが、末っ子で、すでに父親は亡く、後を継いでいた長兄が、そんな贅沢はできない、「高等小学校」で沢山だと言って、上級学校への進学はできなかったということだった。一族の「庄屋」と言われていて、かなりの田畑を小作に出し、経済的には豊かな中地主だったのに、末っ子でどちらかというと気の弱い父は、兄に逆らえず、高等小学校を終えると、当時東京で歯医者を開業していた次兄を頼って上京したのです。

 自立した女を目指した母と気弱で家長の長兄のいいなりになってしまった父。そんな二人の組み合わせ。詳細は知りませんが、のちに母から聞いたのは「この人には私のような女が付いていなくちゃダメだ」と思って結婚したのだとのこと。たしかに、結婚後の二人の生活は、「おなみさん」がついていたからなんとかなったと思えるような、かなり厳しいものでした。(続く)



瑠璃唐綿ちゃん、まだ元気!

下の写真は、種の入った鞘

の大写し。

花の数だけ鞘もできる。


🌻 追伸 今日の毎日新聞夕刊 「特集ワイド」〜この国はどこへ、これだけは言いたい〜に、翁長樹子(おながみきこ)さん登場。ぜひ手に入れてお読みになることをお勧めします!

タイトルは「継いでいく夫の思い 沖縄の怒り」様々な思いを語った後の結びの言葉に泣けました。その言葉とは「私は翁長を愛し続けるし、彼の思いを継いでいきたいんです」

記事は上東麻子記者の署名記事


2022年11月2日水曜日

NO.696〜2022年11月2日(水)〜代わり映えしませんが庭の秋〜

 🌻 母の記そして時々父の記は、続きますが、今日は一息入れてまたまた庭の秋です。

南天、紫式部、瑠璃唐綿 何度見ても綺麗なので、載せますが、もう結構という人もいるでしょうね。すみません。