2022年11月7日月曜日

NO.700〜2022年11月7日(月)〜母の記(5)「肺結核」ではなく「肺壊疽」ではないか〜

 🌻 父が慣れない開墾仕事で倒れた時、村の近所の医者は「肺結核」との診断だった。昭和20年代の肺結核といえば、都会でも恐れられた病気。まして山深い田舎では「死の病」と恐れられていた。「肺病」の噂が広がり、誰も寄り付かず、母の苦労は筆舌に尽くし難かった。母は、もう一人の若い開業医に泣きついた。その時のことを後にその医者は「おなみさんが髪振り乱して、先生助けてくださいと言ってきた時には、有無を言わせずという感じだった。コレはなんとかせねばと思った。」と言っていた。

 母は、「肺結核」との診断に疑問をもち、なんと、古本屋を営んでいた父が、これだけはと戦火に焼かれる前に故郷に疎開させておいた「平凡社の世界大百科事典」を必死に調べたのだ。その結果、父の病は「肺結核」ではなく「肺壊疽」ではないかと突き止めた。髪振り乱して駆け込んだ二人目の医者に「肺結核ではなく肺壊疽ではないかと思う」と訴えたという。「這っても黒豆」の根性がなければ、「肺結核」の診断のまま、当時、超高値のペニシリンを使ってもダメで、父は命を落としていただろう。しかし、二人目の医者と母の協力で、父は命拾いをした。1949年(昭和24年)のことだった。

 小学4年生だった私がかすかに覚えているのは、父が8畳の表座敷(当時の家は、囲炉裏を囲む板の間の台所と、12畳の茶の間、8畳の表座敷、同じく8畳の奥座敷、6畳の小座敷と、畳の部屋が4つあった。)そのなかの庭に面した8畳の表座敷が父の病室だったこと。医者が毎日のように往診して、気管支に直接注射をしていたこと。その注射が医者も大変だったが、受ける父の苦しさも大変だったことなど。

 とにかく母が「百科事典」で調べて、「肺壊疽」という病名を突き止めたということは、すごいことだったと思う。身長150センチ足らずの小柄な母だったが、丈夫にできていたのだろう。8人もの子を産んで(一人は5歳で一人は生後10日で亡くしたが)戦中戦後の苦境(貧乏、夫の看病などなど)を乗り越え「みんな私が産んで私が育てた」と豪語し、民生委員や仏教婦人会などの社会活動もした母。子どもたちはそれぞれに、自分たちの人生を精一杯生きてきた(6人のうちすでに次兄、私、妹の3人になってしまった)が、母を超える強靭な人生とはならなかったかなあと思う。我が母ながら素晴らしい人だった。

瑠璃唐綿ちゃん

そろそろおしまいかな

よく頑張ったよね。

最後の1輪まで

見届けてあげるよ。


金柑の実が

だいぶ大きくなりました。

年末には

金柑の砂糖煮が

できるかな

誤字脱字等、校正どうぞよろしく。



<追伸>

明日11月8日店頭発売の「サンデー毎日」11月20日27日合併号「読者から」に私の投稿が載っています。青木さんの「抵抗の拠点から」もオススメです。