2022年11月4日金曜日

NO.697〜2022年11月4日(金)〜母の記(2)この人には私が付いていなくちゃ〜

 🌻 「太陽と米の飯はついてくる」と豪語!して関東大震災後の東京に出てきた21才の母は、その後、、元の職場に戻ったのかどうか、その辺のことはよくわかりませんが、同郷の親戚の家に居候をさせてもらったらしいです。その頃どんな経緯かそれもはっきりしませんが、父と知り合ったようです。

 当時は「上州名物、かかあ天下と空っ風」と言われていて、のちに母に聞くと「上州」つまり群馬県は養蚕が盛んで(富岡製糸工場の話がありますね)、その養蚕の仕事は、女性がになっていたようです。また、「空っ風」とは、「赤城おろし」を言うようです。とにかく上州女はよく働いたということでしょう。母は、そう言われることを嫌だとはおもわず、むしろ誇りに思っていたようです。そして、戦後、夫の郷里信州に暮らすようになって、私などによく「信州は男尊女卑だ」と言っていました。親のいいなりにならずに単身東京に飛び出して、今で言えば「自立した女」だった母にしてみれば、何かというと「女のくせに」という言葉が男たちの口に出る信州での暮らしに、「男尊女卑」を感じたのでしょうね。私も小、中学生の時、父から、また周囲の大人や同学年の男子などから「女のくせに」と言われて、嫌な気がしたのを覚えています。

 話はもどって、母は、女4人男3人きょうだいの長女なのに対して、父は七福神と言っていたように、男6人女1人というきょうだいの末っ子。小学校の成績が良かったので、先生が(当時は旧制の「中学」「高校」「大学」というコースと、尋常小学校の後は「高等小学校」というコースがあった)大学まで行くコースを勧めたが、末っ子で、すでに父親は亡く、後を継いでいた長兄が、そんな贅沢はできない、「高等小学校」で沢山だと言って、上級学校への進学はできなかったということだった。一族の「庄屋」と言われていて、かなりの田畑を小作に出し、経済的には豊かな中地主だったのに、末っ子でどちらかというと気の弱い父は、兄に逆らえず、高等小学校を終えると、当時東京で歯医者を開業していた次兄を頼って上京したのです。

 自立した女を目指した母と気弱で家長の長兄のいいなりになってしまった父。そんな二人の組み合わせ。詳細は知りませんが、のちに母から聞いたのは「この人には私のような女が付いていなくちゃダメだ」と思って結婚したのだとのこと。たしかに、結婚後の二人の生活は、「おなみさん」がついていたからなんとかなったと思えるような、かなり厳しいものでした。(続く)



瑠璃唐綿ちゃん、まだ元気!

下の写真は、種の入った鞘

の大写し。

花の数だけ鞘もできる。


🌻 追伸 今日の毎日新聞夕刊 「特集ワイド」〜この国はどこへ、これだけは言いたい〜に、翁長樹子(おながみきこ)さん登場。ぜひ手に入れてお読みになることをお勧めします!

タイトルは「継いでいく夫の思い 沖縄の怒り」様々な思いを語った後の結びの言葉に泣けました。その言葉とは「私は翁長を愛し続けるし、彼の思いを継いでいきたいんです」

記事は上東麻子記者の署名記事