2022年11月5日土曜日

NO.698〜2022年11月5日(土)〜母の記(3)みんな私が産んで私が育てたのよ!

 🌻 1924年22歳の時に25歳の父と結婚。当時、父は時事新報社勤務。翌年長女誕生。28年29年と次女長男続けて誕生したが、結婚7年後31年には世の中の不況に伴い時事新報を解雇された。同じ年、次女が病死という大きな災難が夫婦を襲った。文学青年でロマンチストでプロレタリア歌人同盟に参加していて、しかも会社を解雇され、次女には死なれという中で、父は「この人には私が付いていなけりゃ」という気概をもった母にどれほど助けられたことか。その後母は、「もう会社勤めはやめてほしい。自分たちで商売を始めよう」と父を叱咤激励して、高田馬場で「古本屋」を始めた。しかし、左翼関係の本や自分の好みの本ばかり置いて、ちっとも売れなかったらしい。常連客には中野重治や佐多稲子、中条(のちの宮本)百合子などがいたという。

 1936年には次男誕生(10日後病死)37年三男誕生、39年三女(私)誕生と4人の子持ちとなったが、時代は戦争へと突き進む。42年四男誕生の頃は、戦争は敗色濃く、45年5月東京山手大空襲で古本屋兼自宅は全焼!小学生の三男は縁故疎開で、すでに信州にいた。3月の東京大空襲後に、高田馬場も危ないということで、母は、2歳の弟を背負い5歳の私の手を引いて父の故郷信州に疎開したので、家は全焼し家財道具やたくさんの本は亡くしたが、家族は全員無事だった。結婚から21年、夫の失業、子ども二人をなくし、空襲で家は全焼という災難に出会った母だったが、まさに彼女が付いていたからこそ、父はその大きな危機を乗り越えたきたのだと思う。戦後の信州での生活は、大変なものだった。家こそあったが、父は、不在地主だったために、田んぼは農地改革で全て人手に渡り、わずかに残った桑畑を開墾して田んぼにするという重労働のために父は病に倒れてしまった。私が小学校3年生の頃のことだ。

 1945年の8月15日には、父母と6人の子ども揃って終戦の詔勅を聞いたが、姉と兄はすぐに東京に帰り、姉は小学校教師に兄は東大生になった。残った子ども4人と病気の夫を抱えて、見知らぬ土地で暮らす母の苦労は並大抵じゃなかったろう。「私が付いていなけりゃ」と言った母自身も、これほどの災難を想像していたかどうか。しかし、気丈な母は本当に前向きに頑張った。母の口から、愚痴めいた言葉を聞いたことはない。当時のエピソードで、さすが我が母と、今でも妹と語り合うことがある。それは、中学2年、小学校5年、小学校2年と3人の子ども達が、そろって成績が良かったので、村の人から「おたくはお子さんのできがいいから、うらやましい」と言われた時「みんな私が産んで私が育てたのよ」と言ったのだ。

いやまったく、それにちがいないけれど、そう言い放つとは、すごい鼻息!さすが!👍