2022年11月10日木曜日

NO.702〜2022年11月10日(木)〜母の記(6)自分の食い扶持くらい自分で稼げ〜

 🌻 母の一代記を書こうなんてちょっとおこがましいことかもね。相当な資料を集め、相当な覚悟を持ってしなくてはならないことですよね。ブログの気楽な話にしちゃうのは如何なものかと、私のみならずきょうだいやその他関わりのある人々から叱られるかも。確かにそうですよね。ということで、始めたことですが、ややトーンを落として、気楽なおしゃべりに。 

 「みんな私が産んで私が育てた」その子育ては、どんなものだったのか。男の子に対してはどう思っていたのかよくわかりませんが、女の子に対しては、今でいう「キャリアウーマン」まではいかなくても「自分の食べることぐらい自分で稼げ」ようするに「一生食うにに困らない仕事(職業)をもて」ということです。それには、母の記(3)で書いたように、結婚して7年後の1931年には世の中の不況に伴い夫が時事新報を解雇された」経験があります。幼子を抱えてどうしたらいいのか、その時、もう、人に雇われるのでなく努力すればなんとかなる仕事「商売」を始めようと思ったのですって。そして尻込みする夫の背中を押して、知り合いの「古本屋」の指南をうけて、高田馬場に小さな古書店を開業したのですね。その経験が一生食うにに困らない仕事(職業)をもて」ということになったのです。

 その母の教えというか人生哲学にしたがって、3人の娘はそれぞれ、そういう道を選びました。姉(戦前の女子師範、のちの東京学芸大学卒)と私(東京学芸大学卒)は公立小学校教員に、妹は(社会事業大学卒)東京都の公務員になり、姉は残念ながら病気(乳がん)のため、私は夫の介護のために二人とも定年前に退職。しかし妹は定年まで勤め、さらに嘱託として70歳まで勤めました。3人の娘は、自分の食い扶持くらいは、人に頼らない仕事を持ったわけです。したがって、3人とも結婚後も夫に気兼ねするなどということなく、父母の老後の世話をすることができました。姉夫婦はすでに千の風。私は一人ぐらし、妹は夫婦揃って、それぞれ、現在も「自分の食い扶持くらいは」なんとかなっています。母の確固とした子育て論に感謝です。

         〜朝焼けの空(2017年11月7日、二階の窓から