2022年10月8日土曜日

NO.678〜2022年10月8日(土)〜今日、10月8日、我が6人きょうだい末っ子の妹が喜寿〜

🌹 1945年、10月8日の明け方、6人きょうだいの末っ子になる妹が、この世に生を受けました。あの15年戦争と言われる過酷な時代が終わって、ようやく2ヶ月になろうとするこの日、過酷な戦争時代よりも、もっと過酷な、着る物にも食べる物にも事欠くこの日、何も知らずにこの世に生を受けた赤ちゃんの未来はどうなるのか、両親は、どんな思いだったのかしら。来年(1946年)4月小学校、(まだ国民学校だった、1947年から教育基本法によって小学校に戻った)に入学する予定の私は、どんな気持ちだったか覚えていません。

 1945年の3月10日の東京大空襲のあと、もう東京は危ないと身重の母は2歳の末の子(私の弟)を背負い5歳のわたしの手を引き、大荷物を持って高田馬場から信州の夫の故郷へと疎開したのでした。疎開の満員列車の中で、何度も大声で、子どもがいるのよ、子どもが潰される!と叫んで、小さな私を守ったという話を、戦後、何度も聞かされました。母は強し!それから半年後に妹が生まれたというわけです。満員列車の中で、見ず知らずの土地での戦中戦後の暮らしの中で、よく流産もせずに妹を産んだなあと、ただただ感心するばかり。母はよほど心身の健康に恵まれていたんですね。

 余談になりますが、母は、150センチに満たない小さな体で、8人もの子どもを産んだんですよ。もっとも、ふたりめの女の子は、3人目の子どもが、年子で生まれたために、母の実家(群馬県)に預けられ、そこで病死してしまった。さらに、4人目の子(男子)は、生まれて10日で、死んでしまったのです。(詳しいことは私は聞かされませんでしたが)

 というわけで、8人産んで、6人は無事に成人になりましたが、ずっと後に、私と妹の間に生まれた弟は、東京で高校教師をしていた時の夏休み、北アルプス槍ヶ岳登山中に病気で急死。結局母は、8人産んだ子どものうち、自分を看取ってくれたのは5人ということになりました。 妹の喜寿77歳を語るのに、ずいぶん前置きが長くなりました。

 妹は、母が43歳の時、しかも敗戦の年の秋に生まれ、母乳の出が悪くて、近所の若い母親からの貰い乳や、米のとぎ汁や、ヤギの乳などで育ちました。でも、なんと私よりずっと大きく丈夫な子になり、77歳の現在まで、病気らしい病気はせず、二人の子どもの出産以外は、入院経験なし。わからないものですね。

 1945年10月8日の明け方の信州は寒かったのを覚えています。囲炉裏の火が赤々と燃え、囲炉裏を囲んで私や他の家族がいたはずですが、自分がいたことしか覚えていません。でも、奥座敷に寝ていた母のそばに付き添っていた村のお産婆さんが、生まれたと言って赤ちゃんを抱いてきて、囲炉裏の大鍋で沸かしていたお湯で産湯を使ったのをおぼろげに覚えています。

 それから77年、2022年10月8日の今日、妹は77歳の喜寿を迎えました。その間に、父母、妹から見て、姉(長女)兄ふたり(長男と三男)が千の風になり、6人きょうだいといって過ごしてきた長い日々を経て、きょうは、二番めの兄と二番めの姉(つまり私)と妹の3人きょうだいになってしまいました。兄と妹は夫婦健在、私は夫が逝って18年のお一人様。この先それぞれどんな運命が待っているやら。

 日本という国も、世界の有り様も、77年の間にずいぶん変わりました。これからの日々は、今までよりもっともっと大きく変わるのでしょうね。

🌻 今日のブログはまったくの私事で、失礼しました 🌻