2022年10月30日日曜日

NO.694〜2022年10月30日(日)〜亡き母の誕生日、生誕120年の母の記(1)〜

 🌻 28日(金)のブログに、いずれ「我が母の記」をなどと書いたのですが、今日10月30日は母の生誕120年の誕生日なので、先延ばしせずに、今日から「母の記」を少しずつ書こうと思います。このブログは備忘録と言い訳しながらね。

 1902年(明治35年)10月30日生まれ。きょうだいの間で、子どもの頃は「おかあちゃん」や「かあちゃん」と呼び、おとなになってからは「お母さん」孫たちの前では、「おばあちゃん」と呼び、亡くなってから母について語るときは、その名「なみ」をとって「おなみさん」と呼びあっています。

 一言で言えば「肝っ玉母ちゃん」「我が子に対する圧倒的な信頼」母が生涯を終えた時、子どもたちが異口同音に「えらいお母さんだったよね」と。その生涯は、波乱万丈。(もっとも、どんな人の生涯も波乱万丈でしょうけれど)

 生涯最後の2年間はかなり衰えて、信州での一人暮らしは無理となり、様々な事情の中で、三女の私と同居していました。私はまだ現役。夫は退職していたので、母の世話は、主として夫が引き受けてくれました。「ナオコは娘だから世話になるのはいいけれど、ナオフミさんには本当にすまないね」が母の口癖でした。そんな我が家で生涯を終えた(1986年12月24日没)のですが、我が家での最後の日々を記した日記帳が残っています。

 1902年(明治35年)10月30日生まれ。上州、赤城山をのぞむ村の中地主の家柄、7人きょうだい(兄一人、妹三、人弟二人)の長女。20歳で上京。当時では大変珍しい会社勤めをしていた。元気で勤めていた1年後に「関東大震災」(1923年〜大正12年〜9月1日午前11時58分32秒〜)に遭遇。以下母の最後の日記帳より抜粋。
(84歳の誕生日直前、1986年9月1日の日記より、この日記を書いてから3ヶ月と23日後に亡くなった。この日記が母の絶筆となった)

✏️ 私が20才で上京し、東京電燈に勤めたのは大正11年9月であった、それからちょうど1年過ぎた時に、関東大震災があり、会社は焼けてしまった。道ひとつ隔てた帝国ホテルは鉄筋コンクリートの現代建築であったため震災を免れた。私たちはしばらくその帝国ホテルを借りて事務をとっていた。
 そうしたら、9月4日に上州の父が、東京には食べる物もなく餓死するという話が伝わったと言って、おにぎり、焼き餅、米や、小麦粉などを持って迎えに来た。やっぱり親だと涙が出た。そうして父と一緒に上州に帰った。
 しばらくしておちついたので、仕事の後始末をするために、もう一度上京。会社は、辞めなくてもいいと言ってくれたが、親が、どうしても帰りなさいというので帰郷した。
 実家で、しばらくぶらぶらしていたが、村の金持ちの家に嫁に行く話を持ち出され、姑勤めをさせられるのがいやで、「太陽と米のメシはどこへ行ってもついてくる」といって、再び上京してきた。
(いやまったく、おなみさん21才の心意気はすばらしい!と我が母ながら、娘の私は脱帽です。ボケていても、昔のことは忘れないと言いますが、母も84才亡くなる3ヶ月前の日記なのに昔のことをよく覚えていますね)「波乱万丈の母の記」第1回はここまで。