2024年6月30日日曜日

再開ブログNO.35〜2024年6月29日(土)〜夫の祥月命日20年目〜

🌻 2004年6月29日午後2時42分夫は旅立ちました 🌻

このブログは、一応公開はしていますが、自分の記録のため、そして親族や私たち夫婦の共通の友人知人 などへのお便りの意味もありますので、私的なあれこれも書いています。読み飛ばし、読み流し、読み捨て、どうぞご自由にお願いします。

 今日、没後20年の記録として、療養日誌の6月29日のものを記録しておきます。

🌻 2004年6月29日(火)🌻

  5時起床(当時はホスピスの彼の病室にある仮ベッドに寝泊まりしていました)、5時8分自転車をすっ飛ばして帰宅。10分で着いた。庭の池に水いれ、庭全体に水やり、野牡丹、秋明菊特に気をつける。家の内外特に変わりなし。

 6時帰院 シャワー。N 変わりないが呼吸の回数が昨日より多くなった気がする。7時半朝食。Nは生死の境をさまよっているのに、そのそばで私は食べている(ぶどうパン、ヨーグルト、りんごジュース)

 8時10分 ナース見回りに

 10時  体温37度6分 呼吸32/分 

     ドクターの言葉「よく頑張っている。生命力強い」

 10時半 ボランティアのメンバーが、病室に飾ってくれるフラワーアレンジメントを取り替えてくれた。家から持ってきている「風蘭」が芳香を放っている。

 11時半 近くのお蕎麦やさんにお昼を食べに行く。(行く前に看護師さんにOKをもらう)

     この時はもう、いつ息をひきとるかわからない状態なので、トイレに行くのも了解を得る。10年に及ぶ看病なのに、息をひきとる瞬間にそばにいなかったなんて酷すぎるので、ちょっとでもベッドのそばを離れる時は、了解を得ることにした。

     1時少し前、呼吸の状態が悪くなっているとのことで、娘に電話。

     娘夫婦駆けつける。 

 午後2時42分  主治医が、最後まで聴力はあるのです。お声をかけてください とおっしゃって、ベッドの左右にいる私と娘がそれぞれ彼の手を握りしめて声をかけた。

     娘「パパの子どもでほんとうによかった!ありがとう!」

     私「「一緒の人生、楽しかったよ、ありがとう!向こうで待っていてね!」

    その直後、呼吸を示す風船がす〜っとしぼんで、「ご臨終です」と主治医の声。午後2時42分。

 泣く暇もなく、病室を飛び出し自転車で帰宅。彼が病院の車で帰宅するのを迎えるための様々な準備などで、大忙し。詳細は記憶にない。ともかく暫くしてお棺に収まった彼の亡骸が帰宅。

  療養日誌の最後の記述⇨「30日お通夜、7月1日葬儀」お棺には、最後に着ていたパジャマ、タオルケット、麻の夏掛けをいれた、亡骸の周りは家に咲いていた花々でいっぱい。親族友人のみの私的なお葬式。遺言によってお墓は私が決めたところに。夫の郷里や夫の親族親戚などとは関係のないところ。骨壺が6人分入れるということで、少なくとも私の骨壺はそこにおける。あと4人分は誰が入るのかしら。

🌻 20年前の記録を読み返すと、20年という時間があっという間に過ぎ去って、私は2024年6月29日の朝にいる。今思うと、あの日の早朝、自転車をすっとばして家に帰ったのだが、夫の臨終が近いという時、よく事故を起こさず家に着いたなあと、今頃怖くなる。そしてあの時、そのあと一人暮らしが20年も続くとは、全く考えられなかった。人間の命は儚いものだけれど、また強いものでもあるなあと実感する。私の弟は、24歳の時、槍ヶ岳頂上付近の小屋で病死した。義姉は30歳前に第二子出産前の「胎盤早期剥離」で母子ともに亡くなった。(私はそれがトラウマになり「妊娠」を拒否した)、夫は、66歳、台湾旅行中に危篤状態と言われながら生き延びて、そのご入退院を繰り返しながらも、医師も驚く生命力で77歳まで生きた。

 しかし、今現在の人類社会の有り様を見ると、彼のような人にはもっともっと生きていて欲しかったと思う。東大法学部卒業後、将来を約束されながら、大人の弁護士になるよりは・子どもの人権を守りたいと、家族親類縁者の期待を裏切って、敗戦直後の日本で混乱していた教育の世界に飛び込み、政治家にもならず法曹界にもいかず、東京下町の親を亡くしたり、貧困にあえいでいた子どものために働く公立中学の教員になった。東大時代の親友たちは、それぞれ弁護士や裁判官として成功。しかし、彼らは夫の志を尊敬し、私たちの結婚式に参列してくださって「われわれの仲間で最も優秀な彼が公立中学の教員になったことに敬意を表します」とスピーチしてくれて、私は感激した。当時の東大は南原繁総長の時代。

 南原繁先生の著書「母」が、現在、夫の遺産の中の最高のものとして我が家にあります。

奥付には <1949年6月30日 中央公論社 栗本和夫発行 定價130円> とあります。

表紙裏には、夫あてに、<〇〇〇〇君一家に> という南原先生のサインがあり、

裏表紙には、夫の字で 

1951年11月29日 南原総長最後の面会日の最後の面会人として、ぼくは、先生に会った。

話の序でに先生は ぼくの家族のことを尋ねられ、皆でよんでほしいと この書を賜った。

とかいてあります。

 以下の話は、私だけの思い出話で、公にするべきものではないと思うけれど、このブログは公開してはいるものの、お読みくださるのは友人親族のごく限られた人たちなので、ご容赦くださいね。ただ、私は、彼との出会い(22歳)から別れ(64歳)までの40年間を人生でもっとも素晴らしい時間だったと思っています。彼は亡くなるひと月前、意識がしっかりしていた最後の日に、私宛の手紙を書き残してくれました。人生を振り返って様々なことを書き連ねた結びの言葉は「お詫びのしようもなく、感謝のしようもない、その上、これからまた様々な面倒を掛けると思うが、お願いするより仕方がない。よろしくよろしく頼みます」いつ読み返しても何度読み返しても、涙する私です。素晴らしい人に出会えて、悔いなき人生だったと。