2022年3月18日金曜日

NO.462 2022年3月18日(金)ロシアのウクライナへの侵略戦争に思う


 🌻 1939年生まれの私は、太平洋戦争当時、東京高田馬場に住んでいた。物心ついた頃は、毎晩防空壕で寝ていたような気がする。1945年3月10日の東京大空襲のあと、もう、東京は危ないということで、母は、私と2歳の弟を連れて、信州の父の故郷に疎開した。その時の列車は本当にすし詰め状態だったという。弟を背負った母は、大きな荷物を持ち5歳の私の手を引いていた。ともすると私は周りの大人に押されて、潰されそうになったらしい。「子どもがいるんです!押さないでください!!!」と叫び続けていたと、母は戦後になっても、後々まで、その時の話をしていた。

 1902年、群馬県に生まれた母は、女学校卒業後、農家の嫁になるのを嫌い、東京にいる親戚を頼って、単身上京。当時は珍しかった会社勤めをし、関東大震災にも遭遇した。信州生まれの父と東京で知り合って結婚したので、夫の故郷での暮らしは、初めてだった。幼子を連れて慣れない土地で、知らない人たちの間での暮らしは大変だったようだ。

 私の疎開から2ヶ月後、1945年5月25日の山手空襲で、私の生家は全焼、身の回りのわずかな衣類などのほかの、家財道具はほとんど消失。何かにつけて「あの戦争さえなかったら」という父母の嘆きを戦後かなり後まで聴かされた。戦争というものは、戦後、時間が経ってもつらい暮らしを強いるのだということが、子どもの心に深く刻み込まれた。

 この秋、83歳になる私の世代がギリギリそういう戦争体験を語れる世代だろう。私より若い人たちは、想像力を駆使して、歴史を学んでいくしかないけれど、現在はその気になればいくらでも資料がある。それなのに、現在日本の政治家たちは、あまりにも不勉強だ。どうすれば「核保有」だの「敵基地攻撃」だのという、信じがたい言葉と思想が生まれるのか。そしてそんなことを言う政治家に国民の多数が投票するのは、なぜなのか。