2021年5月8日土曜日

97.古本屋の娘

📚 毎週土曜日、毎日新聞は「今週の本棚」東京新聞は「読む人」「書く人」というタイトルで、2ページにわたって「書評欄」がある。両紙の書評欄を読んで、これはと思う📚の評を切り抜き、書店に走る。行きつけの書店があり馴染みの書店員さんもいる。この書店員さんとのおしゃべりが楽しい。

 ところで私は1939年11月東京は高田馬場の古本屋の娘として生まれた。父は高等小学校を卒業してすぐ、故郷信州の知り合いを頼って上京し、紆余曲折を経て古本屋を開いた。父は歌詠みでもあって、友人知人と短歌の結社を作って短歌雑誌の発行などもしていたという。しかし、その頃のことを私はほとんど知らない。若い頃は親がどんな人生を歩んできたのかに興味を持つよりも、自分のことで精一杯だった。今、親の年齢を超えて、親についてあまりにも知らなすぎることを悔やんでいる。私は6人きょうだいの上から4番目、上の兄姉たちは両親の若かりし頃のことも聞いていたかもしれないが、私は母が37歳のときの子、今、妹がそばに住んでいて、ほとんど毎日我が家を訪ねてくれてあれこれ昔話もするが、彼女は末っ子で、母が43歳のときの子。ふたりで、もう少し両親にいろいろ聞いておけばよかったねと言い合っている。

 父から聞いた古本屋時代の数少ない話の一つに、プロレタリア歌人の集まりに顔を出していたこともあったということを聞いた。そのころ、中野重治「斎藤茂吉ノオト」を書いたとき、茂吉の資料集めを手伝ったと言っていた。私は、学生時代「中野重治」に惹かれていて卒論を書こうと思ったくらいだった。結局、卒論にはならなかったが、父からその話を聞いたのは、もう大学を出て教員になった頃だったので、もう少し早く聞いていれば、卒論になったかもと、ちょっと残念だった。父は、その話の中で、うちの本屋は、当時警察から目をつけられていたプロレタリア作家たちの秘密の連絡所みたいな場所になっていたなどとも言っていた。若い頃の父が中野重治や佐多稲子などに多少なりとも協力していたのだと思うと、私が中野重治に惹かれたのは、そんな父とどこかで繋がっていたのかななど思って、不思議な気がする。

 その「斎藤茂吉ノオト」は今、私の手元にある。高田馬場の我が家、つまり古本屋は、1945年5月26日の山手大空襲で全焼。3月10日の東京大空襲の後、こちらも危ないということで、父は一番大事と思う📚を故郷信州に疎開させた。疎開できる数に限りがある中で、「斎藤茂吉ノオト」を真っ先に疎開📚のリストにあげたのだという。おかげで今、私の手元にあるわけだ。昭和16年6月25日印刷 6月30日発行 3百部 定價参圓五拾錢 著者中野重治 発行者古田晃 発行所筑摩書房。この古田晃という人は、やはり信州人で筑摩書房という名も信州にちなむ名だ。

 後年、私は中野重治全集第1巻(1976年9月20日初版第1刷発行)から1980年5月23日初版第一刷発行の第28巻まで全て揃えた。その後も中野重治関連の本はかなり集めた。例の「五勺の酒」が載った「展望」昭和22年1月号(第13號)特価15圓)もある昭和16年の「斎藤茂吉ノオト」が参圓五拾錢で、昭和22年の薄っぺらな展望が15円!戦後の超インフレがわかる。展望には昭和22年8月1日の讀賣新聞のカバーが付けてあり、当時の世相の一端がうかがえる。この前閉園したのが大きな話題になった「豊島園」の「プール開場」の広告が載っている!新聞をうっかり持ったら紙が崩れた。