2021年5月9日日曜日

98.中野重治 「社会評論1946年再建2月號」掲載評論

 * 1945年8月15日敗戦。都会も田舎も人心は荒廃し戦争が終わった喜びよりも、今後の暮らしへの不安の方が何倍も大きかったのではと思う。我が家も、家は全焼し、着の身着のままに近い状態で、父の郷里、信州佐久の山村に引揚者となった。10月には末の妹が生まれた。父は徴兵されるには歳をとりすぎ、長兄は9月に学徒動員での入隊が決まっていたが、8月に終戦になったので戦争に行かずにすみ、家族8人戦争で命を落とすことはなかった。 翌1946年2月太平洋戦争敗戦後はじめての冬。人々はどんな気持ちでいたのだろうか。乳飲子の妹は母乳が出ず、近所の人からもらい乳をしたり、米のとぎ汁を母乳代わりにしたり、親も子もとにかく空腹をこらえるのに苦労していた。私は4月から国民学校1年生になる年の冬だった。(教育基本法が公布されたのは1947年3月31日だったから、46年4月はまだ国民学校。2年生から小学校になった)。

* そんな年の2月5日、東京ではナウカ社から「民主戰線綜合雑誌 社会評論 再建2月号」が発行された。(手元にある)。表紙を見ると、野坂参三の<民主戦線の提唱>、 <天皇制批判>として、10人の書き手の中に中野重治がいる。またスターリンの<大祖國戰爭>も載っている。1946年2月といえば今から75年前、大昔のことですね!しかし、この号に載っている「天皇制批判」を読むと、75年経っても決着がつかないどころか、天皇制問題はますます曖昧になってきていると思えてしかたがない。憲法改正云々という話もずっと続いているが、私は現在の日本国憲法の問題点は、9条ではなくて第1章「天皇」(第1条から第8条まで)だと思っている。この第1章こそ、戦後の連合軍による日本統治を楽にするために、連合軍側から「押しつけられた」ものではないかと思う。天皇の責任を追及し天皇制を廃止すべきだった。

* そこで1946年「社会評論」2月号に載った中野重治の論考を書き写す。(写し間違いなどお気付きでしたらご指導ください)

 政府........天皇の任命した幣原内閣.......は、国民には戦争責任がないと言明した。逮捕された戦争犯罪容疑者たちは、しゃべる機会があったかぎり、彼らには戦争犯罪責任がないと主張した。フィリピンの山下などは、死刑の宣告後までも自己の無責任を主張した。それから貴衆両院の議員たちは、議会そのもので、彼らの無責任を主張した。

 国民に責任のないことは明らかだ。しかし政府が言明したのは、国民から追いつめられての結果だ。「一億総懺悔」が、国民から手ひどくしっぺ返しをくった結果だ。しかしとにかく政府は言明した。戦争犯罪責任は国民にはない。国民はだまされ、威嚇され、戦争に駆りたてられただけなのだから。それから山下らは主張した。彼には責任はない。彼および彼らはただ「命(めい)のまにまに」戦っただけなのだから。それから逮捕された連中、「重臣」とその連類とは主張した。彼らには責任はない。彼らは強制されたのだから。彼らは「内心」戦争に反対だったのだから。彼らは強制によって自己を枉(ま)げたのではない。暗殺さえ彼らは恐れなかった。ただ宣戦が天皇によって布告されたため、「承詔必謹」の「臣道実践」においてそれに従ったまでなのだから。議員連中も同じく主張した。彼らには戦争責任がない。その理由は、ーーーその理由はなんだかわからなかった。

 そこで戦争犯罪責任が国民にはないことになった。将軍連にもないことになった。「重臣」連にもないことになった。議員連にもないことになった。戦争犯罪責任はどこへ行くか。どこへ行くことができるか。

 逮捕された容疑者連中、現職の大臣連中、将軍連中、重臣連中によって、戦争犯罪責任は、集中凝固して天皇に帰せられた。近衛などは、最も卑劣な証拠隠滅によってそれを天皇に帰した。

 天皇の重臣、天皇の政府の大臣、天皇の軍隊の将軍、天皇の議会の議員、この連中がよってたかって、天皇を戦争犯罪の主犯の位置に追い上げたことは興味がある。彼らは天皇制擁護を叫んでいる。同時に天皇を戦争犯罪人の主犯に追いあげている。(12月20日)

 (なお、この文は、1979年3月25日発行の中野重治全集第12巻34ページにも載っている)