2022年8月15日月曜日

NO.646〜2022年8月15日(月)〜敗戦記念日その3〜

 🌻 2022年8月15日の3回目の投稿は去年2021年8月14日のブログの再掲にします。自分でも、去年の8月15日前後のブログに何を書いていたのか、すぐには思い出せません。過去の記録を取り出してはじめて、そうだったと思い出す。というわけで、今日は、もしかしたらまだこの後も投稿が続くかもしれませんが、ともかく3回目は去年の8月14日の投稿を再掲します。


NO.228  2021年8月15日を前に

 🌻 76年といえば、歴史の彼方、でもつい昨日のことのようにも思える。76年という気の遠くなるような時の流れを一瞬で飛び越えて、私は、1945年8月15日にいる。父の故郷、信州の山村。両親ときょうだい5人、5月の山手空襲で焼け出された東京からの引き揚げ者。5才の私の記憶はほとんどおぼろになっているが、貧乏暮らしの中で、なぜかラジオはあった。

 いわゆる玉音放送については全く覚えていないが、その放送の後だったろう、長兄が両手を上げて大喜びで裸足で庭に飛び出したのをはっきり覚えている。のちに聞いたところでは、兄は45年9月には、学徒動員で入隊させられるところだったという。その半月前に戦争が終わったのだ。命拾いをした兄は、86才の長寿を全うした。

 終戦後の暮らしは、以前にも増して大変だった。わずかな蓄えも底をつき、一族の庄屋としてかなりの地主だったが、不在地主としてほとんどの田畑を失った。そんな中で、私は、「あの戦争さえなかったら」という両親の嘆きを聞いて育った。

 以前このブログにも書いた(2月19日、NO.3)私が一番戦争への恨みを覚えたのは大事なお雛様が灰になってしまったことだったが、両親にとっては、かろうじて古い家はあったが、蓄えがあっという間になくなったことを始め、日常の生活用品、家業の古本屋のたくさんの蔵書などなど、全てを無くした嘆きは計り知れないものがあった。母にとっては、初めての夫の故郷での暮らしも、戸惑うことばかりだったようだ。

 この頃のことでうろ覚えではあるが、ひじょうにショッキングな出来事があった。終戦直後か、半年くらい経った頃だったか、軍人として戦地にいた従兄の一人が、生きて故郷に帰ってきたこと。彼の父親は「軍人たるものよくもおめおめと生きて帰ってきたな」と言って、彼に自害を勧めた。かれは、夜中、実家の庭で切腹して果てた。せっかく生きて帰れたのにどうして親が死を勧めたのかわからなかった。今は、戦前の日本のあり方を思い、その犠牲になったのだと言える。長兄が、「玉音放送」を聞いて、狂喜乱舞したのも、両親の「あの戦争さえなかったら」という嘆きも今はよくわかる。

 現在の私が、戦争は絶対にあってはならないと思うのも、天皇制という制度は、1日も早く無くしたいと思うのも、5才で迎えた終戦以後の親の生き方、教育方針によるものが大きいと思う。両親、長兄、姉、弟、みなあの世に逝き、次兄、私、45年10月生まれの妹と3人になったが、次兄も妹も思いは同じ。

 8月15日前後は、メディアもあの戦争に関するさまざまな特集をしている。今現在、地球上に生きている人すべて、国籍や人種を問わず、第二次世界大戦と無縁の人はいない。それなのに、地球上から戦争はなくなっていない。それどころか、人類は地球そのものを何回も破壊できるほどの核兵器を持ってしまった。そして日本は、2度も原爆を落とされながら、核廃絶の先頭に立とうとしない。この先どんな世の中になるのか。考えるだけで恐ろしい。

 今日8月14日のNHKテレビは、朝からずっと大雨特別警報を伝え続けている。いくら核兵器を持ったところで、自然の脅威の前には無力だ。人類はあまりにも奢り高ぶりすぎている。地球は人類だけのものではない。人類よりずっと早くからこの地球上に生きてきた、たくさんの動植物たちを絶滅させる権利は、人類にはない。