2021年7月11日日曜日

NO.178 恐ろしい話

 * 午後4時過ぎから久しぶりのすごい雷雨!我が家の周りにも雹が落ちてきて、ガラスが割れやしないかとちょっと怖かった。今、夜7時半だが、小康状態というところ。夜暗い中での雷雨は嫌だな。どうかこのまま止んでくれますように!

* 連日怒り狂っていて少々くたびれてきましたが、テキはそれを狙っているのでしょうね。なんだかんだ言っても、オリンピックも開会すれば喜んでテレビを見る、だの、コロナ自粛も慣れてしまえば文句は言うまいだのと、ほんとうに国民をなめきっている。バカにされて、おとなしくしていたら相手はつけあがるばかりだ。

* 鳴り物入りで大騒ぎして法制化した「教員の免許更新制度」10年余りでもう廃止ですと!私はもう現職じゃなかったけれど、なんてバカな制度をと思って大反対だった。10年しか持たない様な制度を金をかけて作って、もうやめる。制度を作るのにも止めるのにもまたまた血税の無駄遣いをする。自分の財布が痛まないなら、何をやってもいいと思っている。そんな政治家(最近は政治屋というのが正しい様だ)や気骨のない官僚が、作っては壊し、作っては壊しを繰り返して、さも仕事をしている様なふりをする。本当に腹立たしい。

* 恐ろしい話というのはこのことじゃないんです。きょう7月11日の東京新聞5面のトップ記事。「時代を読む」に掲載された山田健太専修大学教授の論考を読んで、本当に恐ろしいと思った。タイトルは<五輪取材規制と民主主義>長文なので全文書き写すことはできない。冒頭だけ書き写す。

* 緊急事態宣言が出される中、さまざまなリスクを抱えたままの五輪開催が避けられない状況だ。最大のリスクが国民の命であることは言うまでもないが、ここにきて日本が世界から民主主義の後進国とみられる危険性も高まっている。国際NGOの自由度指数で近年下位に低迷し、国連の報告書でも憂慮された日本の報道の自由だが、五輪取材を巡り強い規制を課すことになったことから、海外メディアから不満が噴出し始めた。

 そこでの問題は、政府が制限を当然視している節があることだ。この1年半、国内の報道機関は多くの制約の中で取材・報道を行っている。分かりやすいのは首相会見で、席の距離を確保する必要がある中、わざわざ狭い部屋で実施して参加記者数を絞り込み、毎回わずか30人弱の出席で、質問は一社一人一回を厳格に守り、事前に質問内容を教えない社の記者を実質指名しないという運用だ。(このあと、教授は実際にメディアへの制約の実例を挙げていく)

* 市民的自由の制約は、確実かつ着実にこの二十年間進んだ。思想・表現の自由を直接縛る新規立法や改正が殊更に増えたからだ。一方的に法の解釈を変更し政府統一見解として固定化、それを社会に強要する状況も著しい。自由や権利の縮減をさほど気にしない市民社会も定着してきた。

* 表現の自由は空気の様なもので、災難が降りかからない限り、その重要性や必要性は気がつきにくい。(と述べて、現在の社会が表現の自由を失いつつあるのに慣れてしまっているのではないかと言う)

* (結語は) パンデミック下の五輪開催を受け入れた社会を取材したい、との意気込みを「安全・安心のため」だけで抑えるのは不可能だ。民主主義社会の維持装置である取材活動の制約が、どんな意味を持つかを理解しないまま、形式的ルールの押し付けで、しっぺ返しを受けるのは私たちの社会全体だ。

* 以上の論考は、メディアを制約する政府への警告だが、デジタル毎日は昨日7月10日「政権与党化」した記者たちへ 政治ジャーナリスト後藤謙次さんの怒りというタイトルの記事をを配信した。毎日新聞デジタル報道センターの吉井理記記者のインタビュー記事だ。

これについては、今日の投稿が長くなりすぎるので明日に回します。