2021年7月13日火曜日

NO.184 東京五輪の夏とその後 民主主義の勝負どころ(毎日新聞7/12夕刊・原文のまま)

  東京オリンピック開催が来週に迫った。

 1年前のこの欄で、「(コロナ対策と経済復興の)両面作戦の困難さが凝縮されているのが、近づく東京五輪・パラリンピック開催の可否判断だ」と書いた。

 戦後75年の年、戦略の統一が苦手だった旧日本軍の悪弊を再確認し、後の政治家らがどう学んだかという文脈だったが、ものの見事に外された。開催可否の決断間近と注視していたら、開催の是非論が観客数問題にすり替わり、開催が既成事実に変異した小才の利く者がいるのだろう。

 それにしても、この1年、アジア太平洋戦争当時と現在を重ね合わせる議論がさらに続いた。スペイン風邪など過去のパンデミックも掘り起こされたが、危機対応としては、戦時との対比が日本人にはなじむ。かつて自・他国民にあれほどの犠牲を強いたのに、教訓が学ばれていないと考える論者が多いのである。

 戦前・戦中との類似の中でも最も不気味なのは、「安全・安心」を掲げる政府が、その科学的根拠をきちんと言えないまま、五輪開催に突っ込んでいく姿だろう。

 ワクチンはまだこれから。競技会場が集中する東京など首都圏の感染者は減らない。来日した外国人選手ら五輪関係者と外部を遮断する「バブル方式」は穴だらけに見える。それでも「安全・安心」なのである。

 旧軍とは国力差を無視して米国と開戦し、その後も重火器に白兵戦を挑ませる無謀集団だった。そこで支配していたのは、勝敗を決するのは科学や物量より戦意だという精神主義であり、「敵は弱いはずだ」といった根拠のない楽観論だ。

 安全・安心を唱えれば安全・安心になるはずだ、とでもいう現況が、旧軍最大の欠陥が繰り返されるのを見ているようで不気味なのである。

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 戦前・戦中とは決定的に違い、今は民主主義の国であって、言論は自由だ。軍の作戦には政府も口を出せない「統帥権独立」などはない。だから、世論調査の公表は自由だし、野党は自由に質問をするし、専門家は自由に危機感を訴える。

 にもかかわらず、政府は旧軍並みと酷評されようとも「安全・安心」で押し通し、揚げ句、緊急事態宣言下での開催。まさに戦略の矛盾だ。

 なぜこうなのかとさかのぼると、直接にはやはり2017年の前回総選挙に行き着くと思う。安倍晋三政権下で行われたこの「国難突破」選挙で自公の与党が大勝した。議席数自体は前々回(14年)、前々々回(12年)と似るが、17年総選挙では森友・加計学園問題のスキャンダルがあるのにもかかわらず勝った。この成功体験は、「何をやっても許される」との万能感・無責任感を政権にはびこらせた。

このことは、民主主義を侵食する深刻な事態だと懸念されてきた。総選挙での勝利が、次の総選挙までの間、非民主的な政権運営を可能にしてしまうのなら、全くの「倒錯した民主主義」だ。しかし、実態はそれに近く、現実的な対抗策がないのである。懸念は最悪の道をたどっている。

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 戦時になぞらえついでに考えると、今はどの段階か。対コロナ戦はすでに1年半以上。緊急事態宣言を出したり引っ込めたりと、政権の対応は、用兵面の下の下と評される「兵力の逐次投入」そのものだ。であるから、五輪開幕は開戦ではなく、もはや本土決戦段階とみるべきだ。菅義偉首相のワクチン接種推進の大号令も、決戦へ向けた呼号に見えてくる。

 しかし、政治にいら立っている場合ではない。歴史に学ぶべきなのは為政者ばかりではない。五輪とコロナという思わぬ組み合わせは、「倒錯した民主主義」の異様さをはっきりわれわれに見せた。その根は深いかもしれないが、少なくとも、17年の選択を再考する機会が与えられたと言うべきだ。東京都議選の結果は、その第1段階ではなかったか。

 来る総選挙には、戦後の初の普通選挙のような責任感で臨みたい。五輪後・コロナ後は歴史の節目だ。その時、誰かに「こうなった責任は有権者にもある」などと、「一億総ざんげ」みたいなことを言わせてはなるまい。【伊藤和史】=毎月1回掲載。以上原文のまま(文字の大小、文字色はプロテアナオコによる)