2021年7月12日月曜日

NO.182〜180の続き〜

<政権与党化した記者たちへ〜その3〜>

 ハマコーの「至言」

 後藤さんは東京・飯田橋の生まれ。両親は乾物屋を営んでいた。「6人きょうだい、貧乏人の子だくさんでね。朝から親があくせく働いて、それでも貧しい生活で・・・・・。なんとか広い世界に出たい。その一念だけで大学へ、そしてマスコミへ入ったんです。

 公害といった高度成長のひずみがあらわになった時代でもある。初任地の札幌で選挙取材や政治の奥深さを知り、政治記者人生を歩むことになったが、社会問題を追う社会部の司法記者になりたかった、とも打ち明けた。

 「昔はメディアに来る人間は、『長いものに巻かれる人生だけはイヤだ」という変人ばかりでした。かつてハマコーさん(故・浜田幸一自民党衆院議員)が言っていた。『君らは政治記者だというが、投票所で『自民党』と書いたことなんかねえだろう』。まさにこれ。メディアも記者も『野党性』を自負していたし、それでこそ成り立つ職業のはずです」

 小泉政権で一変した取材現場

 窓外に遠い目を向けていた後藤さんが視線を戻した。

 「今はどうでしょうか。政治の劣化は監視役のメディアの劣化です。なぜこうなったのか。給料も悪くない、生活も安定する、そんな特権に安住するうち、野党性は過去のものになったのか」

 自分たちにも責任はあるのですが、と後藤さんの憂色はいよいよ深い。取材の現場で言えば、かつては国会内でも首相に取材できた。記者会見の司会役も記者が担い、記者みんなが質問できた。

 「ところが私が政治部長だった小泉純一郎政権(01〜06年)のあたりで様相が変わった。国会での首相取材をやめるかわり、官邸で朝夕、小泉さんが取材に応じるという。私は反対した。でもダメだった。小泉さんだからできることで、首相が代われば朝夕の取材もなくなる。権力に押し込まれると思ったのですが・・・・・。

 危惧した通り、その後は朝夕の取材も消え、会見の司会役も官邸側が務め、記者は自由な質問ができなくなった。コロナ禍の今の惨状は前述の通り。先行き不安と右肩下がりの時代である。記者もメディアも「長いものに巻かれ」たほうが楽なのか。後藤さんもうなずく。

 『与党化し、政権に気に入られたメディアには、さまざまな便宜が図られるのも事実です。例えばメディア傘下の野球チームの関係者に国民栄誉賞を与えたり・・・(No.180〜その4〜につづく)